ここ宮城県には、郷土に根付いて匠の精神と技を受け継ぎ、新たな価値を生み出す「モノづくり」の職人がたくさんいます。そんな名匠たちをプラウドカスタマークラブの方々とともに訪ね、秘めたる想いや魂に触れながら学ぶこのプロジェクト。 第三弾は、300年以上もの年月をかけて培われてきた技と誇りを現代に伝える窯元「堤焼乾馬窯(つつみやきけんばよう)」を訪ね、受け継がれる職人たちの魂に触れました。
11月5日、20組の野村不動産マンションオーナーが、水の森公園の豊かな緑に恵まれた「堤焼乾馬窯」を訪ねました。一行を歓迎したのは、陶芸家の針生久馬さん。まずは、ここ仙台の地に根付いた堤焼の歴史と変遷について語ってくれました。
かつて、堤町(仙台市青葉区)にたくさんの窯場があったことから、その名の由来となった仙台ならではの焼き物「堤焼(つつみやき)」。江戸時代、仙台藩主が使う茶器などを手がける御用窯として始まり、後に水甕や鉢といった庶民の生活雑器を広く製造するようになって300年以上の歴史を誇ります。「乾馬窯」は、最盛期に30軒以上あった窯元の一つで、街並みの近代化を受けて昭和39年(1964年)に現在の地へ移転しました。その窯名は、初代当主が仙台藩に造艦棟梁として招かれた幕末の鬼才・三浦乾也(6代尾形乾山)より陶号を授かったのが由緒。久馬さんは家系図を手に取りながら、「ここには、初代が書き写すことを許された秘伝書『乾山秘書』が伝わっています。皆さんには中身を詳しくお見せすることはできませんが、この書に記されている乾山が極めた伝統の製法を大切に受け継ぎながら、地元の土や釉にこだわった堤焼を作り続けています」と話してくれました。
展示場で堤焼作品の数々を見学した後、五袋(焼成室)が連なる大きな登り窯の前に案内されました。ここでは、土造りから本焼まで完成に到る流れを説明。そして、窯の周囲にある小高い土の山を指差しながら、「成形や窯焼きが注目されがちですが、私たちが最も手をかけているのが土造り。台原の粘土層から採取した土を盛り土にして寝かせ、そこから削りだした粘土を水に浸してミキサーにかけます。木の枝や石などの不純物を取り除いた後、水槽に貯めて数ヶ月かけて沈殿。上水を取り除き、素焼きの鉢に移したものがこの窯の前に並んでいるものです。そして数日乾燥させてから土練機に通し、室に移して1年以上寝かせてやっと陶芸にふさわしい状態になるんです」と久馬さん。その説明を聞いた一同はみな、その丁寧な仕事ぶりに感心した面持ちでした。
また、現在、主流となっているガス窯のある工房では、東日本大震災による被害や復旧に尽力したエピソード、堤焼の特徴である海鼠釉(なまこゆう)の作り方などを教えてくれました。
工場の見学を終えると、お待ちかねの陶芸体験。目の前に置かれた約1kgの粘土と手ロクロを使って、思い思いの器づくりにチャレンジしました。久馬さんが、最初に土台部分を作り、紐状に伸ばした粘土を積み上げていく「ひもづくり」による作業を解説した後、製作がスタート。参加者は童心に帰って粘土の感触を楽しみながら、湯呑みや皿などの形を作っていきました。時折、久馬さんや弟の和馬さんらが作業のコツを指導しながら、成形までの工程が完了。この後、高台を付け、釉薬をかけて焼き上げた完成品が3カ月後に届くことを楽しみに、体験教室は終了しました。久馬さんが作品を見渡しながら「どれも個性にあふれ、完成度が高くて驚きました」と笑顔で締めくくりました。
親しみやすい素朴な味わいながら、黒と白の海鼠釉が描く景色の風雅さと、手にしっとりなじむ上質な心地よさを楽しませる堤焼の美。それは、伝承によって強く守られ、職人たちの代を経て磨かれてきた結晶です。いつも作陶にどんな姿勢で臨んでいるかを聞くと、「亡き父と会話を交わしながら粘土と向かい合っています」と語る久馬さん。名工と名高い4代目乾馬であり、師匠でもある父親から作業中にかけられた何気ない言葉、ロクロの前でひたむきに情熱を傾ける後ろ姿、職人ゆえの厳しい眼差しを思い出しながら、乾馬窯の名にふさわしい器を手がけているそうです。修練やマニュアルだけでは伝えることができない、職人魂の継承こそが堤焼の神髄であることを学びました。